2014年10月27日月曜日

[本]生物進化を考える

生物進化を考える (岩波新書)  生物進化を考える(岩波新書)
 木村資生

 偉大な先人の書いた本を読む、その2回目は集団遺伝学者である木村資生の本です(1回目はこちら)。実はこの本は僕がまだ修士の学生だったころに買って、読んではみたものの理解できずに本棚で眠らせていたものです。改めて読み直したので感想を書きます。

「日本人でもっとも偉大な生物学者は誰ですか?」山中伸也?将来的にはそうなるかもしれません。しかし現時点では僕は木村資生だと考えます。進化生物学の研究において新しいパラダイムを作り上げ、その他の生物学の分野にも影響を与える研究をした進化遺伝学者。ここまで大きな仕事ができる科学者は日本人に限らずそこまで多くありません。そんな有名な科学者による、進化生物学と著者自身が提唱した分子進化の中立説の解説の本です。

 本の内容をまとめると… 最初の2章が進化理論の歴史です。ダーウィンやラマルクに始まり、20世紀の集団遺伝学者たちの貢献について著者自身の経験を交えて紹介しています。その後の2章が生命の歴史と突然変異の分子的メカニズム、といった内容、その後の章が自然選択や中立説といった進化理論に関する詳細な解説です。これらの章は、ダーウィンの種の起源の内容の説明から、20世紀前半に行われた自然選択に関する理論や実験の説明、そして、その後の20世紀後半の分子進化研究の発展まで多くの内容をカバーしています。

後半の内容は、一般向けの解説書というより、学説をそのまま説明しているので、どちらかというと教科書のような内容になっています。(そもそも教科書として使えることを想定していると最初に書いています) ただし、著者自身がそれぞれの学説に対してどのような意見を持っているかなどが、ところどころに書かれていて、面白い内容になっています。ただ、やはりこの内容は集団遺伝学や分子進化を一切学んだことの無い人にとっては難しく、とっつきにくい内容かもしれないとも感じました。そういう意味ではこの本は進化を学ぶ学生か研究者のための本かもしれません。

 やはり一研究者として面白かったのは「中立説」に関する記述です。自説がどのようにして認められていったかに関して提唱者自身による逸話が書かれています。例えば、中立説を著者自身が"なかなか心から信じられないところがあった"と書いていたりします。後半の章では中立説が分子進化において観測されるパターン(速度の一定性、保守性、多型の頻度など)を上手く説明でき、その結果広く認められるようになったことが書かれてあり、とても勉強になりました。

また、最後のほうでは将来の研究分野は分子進化と表現型進化の橋渡しであるという意見が述べられていました。

この本を読んでいて何よりも意外だったのが最後の章です。この部分は前の全ての章と全く異なり著者の個人的意見が多く書かれており、それまでの章からは想像できないフューチャリスティックな意見が満載されています。

驚いたのは著者が優生学に対して真剣に意見を述べていることです。医療が発展し有害な対立遺伝子への自然淘汰の影響が小さくなる(つまり中立になる)と、それらが集団内に固定してしまう確率が上がり、将来世代での健康への負担が大きくなる可能性がある、と著者は指摘しています。そして、そのようなリスクを下げるために"消極的優性"を支持しています。さらに他の遺伝学者による"積極的優性"に関する意見も紹介しています。

このような意見はおそらく現在でも、そしてこの本が書かれた当時も、ほとんどの人には受け入れ難いものだと思いました。社会全体の利益のために個人の生活や出生などをコントロールするのは危険をはらんだ行為です。しかし一方で現在の医療活動が将来世代の健康のリスクを高めるなら、何もしないことは良くないかもしれません。(例えば開発の"持続可能性"なども将来世代の資源を損なわないことが重要な点とされています)このような問題はなかなか正しい答えはみつかりません。

最後にとても印象に残った著者の人柄が垣間見える文を引用してみます。この本の最後に出てくる一文です。
動物学者が書いた未来論の多くでは、人類は遠からず滅び、その後は人に代ってネズミが地球上をばっこすることになっている。筆者は、こんな貧相な未来観ではなく、人類が科学技術の粋をつくし、協力して宇宙に大発展する姿を夢みつつ、本書をしめくくりたい。

2014年3月16日日曜日

剽窃・引用・コピペ

Natureに掲載されたSTAP細胞の論文と、その著者である小保方さんによる複数の論文での不適切な行為が話題になっています。

小保方さん博士論文、20ページ酷似 米サイトの文章と
小保方氏問題 理研4時間会見詳報 「科学者としては非常に未熟」

STAP細胞の真偽についてはこれからの調査を待つとして、今僕は博士論文でのコピペをめぐる意見の中に「問題無い」と考える人が多いことに驚いています。

たとえば極端な例を挙げればこちら、

武田邦彦氏によるSTAP論文問題のびっくり解説

さすがにこれは余りに極端ですが、このほかにもメソッドのコピペは当然という意見や、剽窃と引用の区別がそもそもついていない意見が散見されて、かなり衝撃でした。

科学者であり、海外で教育を受けたことのある僕の経験と考えを書いておくことが、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないと思い、少し文章にしてみます。

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科学者が行う研究の大部分は他の科学者の仕事のうえに成り立っています。多くの研究は先人が行った研究をベースにし、そこに新しいアイデアやデータを付け足すことによって行われます。だから論文を書く時は、自分以外の研究者が行った研究に言及して自分の研究の位置付けをおこなったり、ほかの研究と比較して自分の結果の解釈を行う必要があります。

このとき、自分以外の人間が考えたアイデアや行った仕事には、”○○○○によると”、とはっきりその出所を示す必要があります。これは、どこまでが自分のオリジナルな仕事で、どこからが自分以外のものなのか、を明確にするためです。この自分以外から来たアイデアや研究の出所を示すことが「引用」です。

一方、出所を明らかにせずに、他人のアイデア(あるいは他人の表現)をあたかも自分のものであるかのように使う行為が「剽窃」です。引用が適切に行われないことが剽窃であると言い換えてもいいと思います。

法律に書いているわけではありませんが、研究者のなかでは剽窃は非常によくないこととされています。「オリジナルなアイデア」は研究者にとって最も価値あるものだからです。多分それを交換して生活するのが科学の研究者といってもいいでしょう。

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だから研究者の教育を行う場合、剽窃を避ける教育が行われるべきだし、実際行われています(少なくとも僕が博士号をとったイギリスの大学では行われていました)。

僕は留学生向けのアカデミックライティングの授業でそれを学びました。

僕が教わったことを一言でいうなら、”自分の言葉で書き直せ”、です。

他人のアイデアを引用するときは、出典を明らかにしたうえで自分の言葉でそれを書き直すこと、と本当に何度も言われました。それをせずに他人の表現を使った場合Plagiarism(剽窃をあらわす英単語)とみなされる可能性が常にあるとも教わりました。

「手法の部分ならだれが書いても同じだからコピペでもいいじゃん」、という意見もあります。しかし、たとえ同じことについて書いていても、他者が書いた文章は他者の仕事であり、その人に帰属するべきものです。だから必ず書き直すべきである、と。唯一完全な「コピペ」が許されるのは「”」で囲んで出典を明らかにしたときだけです。しかし、一文以上の文章で「コピペ」が必要なときは、やはり書き直すべきである、とも言われました。あるいは”詳細は○○○を見よ”と書いてもいいかもしれません。

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アカデミックライティングのクラスでは剽窃を避け適切な引用をする練習もしました。

具体的には、論文を読んで理解した内容を自分の言葉で要約する、というものです。
読んだ論文内の言い回しを出来る限り直接使わず自分の理解を一段落程度(あるいは一文)に要約する、ということを何度もしました。

この練習は英語の練習にもなるので、おすすめです。僕は暇がある時は今でも時折やっています。

たとえば先日紹介したGoldman et al. (2013)の論文を僕が自分の言葉で1文に要約するなら、こんな感じになります。

Goldman et al.(2013) developed a novel robust method to store information in DNA fragments using ternary coding and redundant sequence coverage.

自分の言葉で書いた文章は、意外なほど他人の文章と一致することがありません。(もちろん似ることはあります。さすがにここまで短いとあまり自信がないかも...)
一文が似ていても自分の言葉で書き続ける限り、何十行にわたって全く同じになることは絶対にありえません。多分文章には書いた人のボキャブラリーや表現の癖、そしてなにより研究の内容に関する理解が反映されるからだと思っています。 

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渦中の小保方さんは”論文の盗用が悪いと思わなかった”と言っているといわれています。もしそれが真実だとするなら、博士課程で十分な教育と訓練が行われていなかったということになります。

自分の言葉で英語が書けるようになるには時間がかかります。僕もまっとうな文章がようやく書けるようになったのは外国に住んで5年以上たってからですし、今でも英作文は難しいと思っています。

ただ、英語力と「適切な引用方法」を切り離して考えることはできると思います。
日本語でレポートを書く時でも、 このアイデアはどこから来たのか、自分自身の考えはどこからどこまでか、を区別し適切な引用をする訓練をすることはできるはずです。

そんな地道な教育を続けることだけが、このような不祥事を減らす方法だと僕は思います。