2012年7月22日日曜日

[本]文明の生態史観 ‐ 歴史への生態学的アプローチ

文明の生態史観 (中公文庫) 文明の生態史観 (中公文庫)
梅棹忠夫

この本は、以前から名前は聞いたことがあるが読んだことがない本の1つでした。せっかく京都に住んでいるのだから、偉大な先人の書いた文章を読んでみることにしました。

まず最初に謝っておかなければいけません。申し訳ありません。僕はこの本のことを典型的な「日本人論」の一種と考えていました。生態学の言葉を使って日本人の特殊性を説明しようとする与太話...そのように考えていました。しかし読んでみるとその内容は、生態学の方法を使って人間社会の変化の法則を理解しようと試みる挑戦的な文章でした。

内容の構成は、11ある章の内最初の2章が、"生態史観"の着想のもとになった梅棹氏の中東・インドでのフィールドワークについて。その後に続く4つの章が"生態史観"についての有名な論考と公演記録です。その後の4つが生態史観に関係した当時の世界情勢の批評とフィールドのこと。最後の1章は内容が飛躍して比較宗教学についての論考です。

やはり興味深い内容が書かれていたのは中間の4つの章です。ここで書かれている内容をものすごく大雑把に要約すると次のようになると思います。ユーラシア大陸は近代文明の発達した"第一地域"と現在はそうでない"第二地域"にわけられて、これらの地域内は共通した文明の発展のパターンがみられる。これらの地域の発展のパターンはそれぞれの地域の地理的位置と気候などの環境要因によって決定されている...

多くのウェブサイトがこの本の内容を紹介していますので、より細かい内容はそれらを参考にしていただければいいと思います。

僕は梅棹氏が複数の文明を比較するとき、その"機能論"の側面に注目したことが、生態学的だと感じました。本文中にあるように、生態学者にとっては"照葉樹林"はどんな樹種で構成されていても"照葉樹林"であるように、日本でも西欧でも構成要素は違えど近代文明は近代文明である、とするのは文明の発展の法則を捉えるのに重要なステップだと思います。

そこから進んで、気候や地理的な条件が異なれば、森林の構成や遷移の様相が変わるように、文明の遷移の様相も環境の要因によって説明できるだろう、というのが"生態史観"の骨子だと思います。

人間社会の変化を生物の進化や生態のアナロジーで説明しようとするという試みは近年でも多くみられます。たくさんの人が"日本の市場が「ガラパゴス化」している..."とか、"「ニッチ」な市場をターゲットにした商品が..."、とか進化や生態の言葉を口にします。

より科学的なアプローチでは、 有名なのはジャレド・ダイアモンドの"銃、病原菌、鉄"やリチャード・ドーキンスの"ミーム"などがあります。ドーキンスもダイアモンドも彼らのアイデアは単なるアナロジーではないと考えていると僕は思います。優れた研究者が共通してこのようなアイデアに到達するのは、比喩ではなく本当に人間の社会が何らかの形で(生物の種のような)進化する単位であるからではないかと思います。

梅棹氏は本文中で、

進化は"たとえ"だが、サクセッションは"たとえ"ではない。生態学でいうところの遷移が、動物・植物の自然共同体の歴史をある程度法則的につかむことに成功したように、人間共同体の歴史もまた、サクセッション理論をモデルに とることによって、ある程度は法則的につかめるようにならないだろうか。

"人間共同体の進化"なのか"遷移"なのかは議論の余地があると思いますが、とにかく梅棹氏は文明の遷移には実体があって、生態学の手法によってその法則を科学的につかむことができると考えていたのだと思います。

このような科学的アプローチで文明の発展の法則を解き明かそうとする試みはとてもエキサイティングです。

ただ、残念なことは梅棹氏の歴史研究の生態学的手法はあまりその後科学的な発展をみなかったように見えることです。当時の生態学の理論ではある程度以上定量的な研究が不可能だったことが原因のひとつかもしれません。"生態史観"の4章のなかでの地域間の比較は、歴史上の共通点の記述のみで、それ以上の実証的な研究はありません。

このほかにも 、当時の歴史学者が生態学の素養を持たなかったことがあるかもしれません。また"生態史観"自体がある種の日本人論として捉えられてしまったことも原因かもしれません。しかし梅棹氏はそのことを、"日本の知識人のナルシシズム"、としてかなり厳しく本文中で批判しています。

僕はこの本を読んで、人間社会の変遷を司る法則を解き明かしたいという真摯な科学者の姿を感じました。それと同時にそれがうまく伝わらないフラストレーションも感じるような気がします。最後に長いですがそういうことを強く感じた部分を引用したいと思います。
世界は多様だと思う。しかし、無秩序ではないだろう。日々のできごとは、しばしば意外であり、混乱であるようにみえるが、よくみると、人類の文明は、いくつかの法則的な変化を、現にあらわしつつあるのではないかとおもわれる。  
世界の統一へのうごきはあるけれど、世界はまだ現実には統一されていない。われわれ自身、その分割された一片の土地に所属している。私たちはその土地からのがれることはできないけれど、その土地をのりこえて、全地球的な課題についてかんがえることはできるはずだ。われわれ自身の問題も、そのような全地球的な歴史のながれの中においてながめてみて、はじめてそのひずみのない姿をみることができるだろう。