2012年12月24日月曜日

今年のニュース

毎年年末になると、今年を代表するニュースが選ばれます。そこで僕も今年最も印象に残ったニュースを紹介したいと思います。
これです。

Bangladeshi workers risk lives in shipbreaking yards guardian.co.uk

イギリスのガーディアンの記事でバングラディシュの船の解体産業とEUの規制についてのニュースです。印象的な写真もあります。

Inside the shipbreaking yards of Chittagong - in pictures

バングラディシュでは毎年100万トン以上の外国船が廃棄されています、そして、それを解体してスクラップを売る産業が同国の経済の重要な位置を占めています。バングラディシュで使われる鋼鉄の半分近くが船の解体から得られているということです。解体の作業は劣悪な環境で行われており、作業員の怪我や船に残された化学物質による環境汚染が問題になっています。それに対してEUは圏内で使われている船を廃棄するときには化学物質を除去すること、ライセンスを持った正規の解体業者によってのみ解体させること、などを義務付けるルールを作りました。それがバングラディシュの経済に悪影響を与える可能性もある、というのが記事の無いようです。

今まで知らなかったことを教えてくれて、かつ深く考えさせられる内容が"印象に残ったニュース"として選んだ理由です。

僕自身は知りませんでしたが、インドやバングラディシュでの船の解体は数年前から問題視されるようになっていたようです。(石油タンカーがどこに捨てられるか、なんて普段は深く考えません) 先進国と発展途上国の不平等。国際社会の複雑な関係。持続可能な経済をつくることの難しさ。いろいろなことが1つの記事から浮かび上がってくるニュースでした。

2012年10月27日土曜日

ちょっとこわいDNA鑑定

こんなニュースが最近ありました。

飯塚事件:ネガから元死刑囚と異なるDNA 弁護団発表
http://mainichi.jp/select/news/20121026k0000m040111000c.html

もし、この事件が冤罪であれば本当に恐ろしい話です。

少し調べてみましたが、1990年代初頭に使われていたDNA鑑定の方法は、単一の遺伝子座を用いて行うものが主流だったようです。マイクロサテライトなどの繰り返し回数が人それぞれで異なるゲノム上の1領域を増幅して比較する、というのが基本的なアイデアです。

現在問題にされているMCT118法は、ゲノム上のMCT118(別名D1S80)と呼ばれる領域をPCRで増幅し、反復配列の繰り返し回数を調べて個人を特定する方法です。D1S80の繰り返し回数は30種類程度あり、染色体二本分を考えれば、遺伝子型は30×30で、900種類。赤の他人どうしの型が一致する確率はおよそ1/900になる、ということですが...

 単純に考えて10万人の人口の町なら、100人以上同じ型の人がいることになりますから、かなり大雑把だったようです。加えて1/900と言う数は繰り返しの種類が同じ頻度で集団内に存在していることが前提になってます。極端な例を挙げると、もしある反復回数の頻度が50%あるようなときは全体の1/4の人間が同じ型をもつことになりますし、親戚縁者の間では一致する確率が上がることも考えられます。
(例えばカタール人の場合、最も多い2つの多型の頻度がおよそ40%と20%と報告されています。この場合この2つを含む4種類の遺伝型を持つ人だけで全体の35%を超えることになります(計算間違ってるかもしれません))

今回のニュースや以前の冤罪のケースで指摘されたのは、増幅された遺伝子の長さを調べるときのゲルの読み間違えや見落としといったことが問題にされているようですが、どちらにしても精度の低い黎明期の技術を使って死刑という重大な決定をしたのは恐ろしいものを感じます。もちろん当時は信頼に足る技術と考えられていたとは思いますが。

DNA鑑定とは関係がないですが、再鑑定で無罪になったかつてのケースで自白などがあったこともやはり気になります。それらはどこから来たんでしょうか?
DNA鑑定の技術が発展したことによって、犯人を見つけることが容易になったと同時に警察の捜査の問題点も容易に明らかになるのは少し皮肉な気がします。

DNA鑑定の技術自体は、正確さの問題を解消するために、長く改良がなされてきたようです。現在のDNA鑑定は、単一遺伝子座ではなく、複数の遺伝子座を調べて個人を特定します。CODISと呼ばれる一般的な方法では13のようです。この場合たとえ1つの遺伝子が偶然1/100で一致しても、全てが一致する確率は(1/100)13ですから、間違いはほとんどないように思えます。ゲルの読み取りも毛細管電気泳動を使っているはずなので、昔より遥かに正確になっているようです。
(ただし、これらの方法でも偶然の一致は存在するようです。そもそも人間には必ず血縁関係があるので、それぞれを単純に独立したサンプルと考えるは危険なのかもしれません)

2012年9月21日金曜日

ゼロシナリオの話

政府は、2030年代までに原発をゼロにする、とした「革新的エネルギー・環境戦略」を閣議決定とすることを見送ることにしたそうです。

http://www.npu.go.jp/policy/policy09/pdf/20120919/20120919_1.pdf

原発ゼロの方針を示した数日後に、このあいまいな内容ですから、「革新的エネルギー・環境戦略」をつくった人たちはどんな気持ちでしょう。

「革新的エネルギー・環境戦略」が出たあと、話題になった討論型世論調査の内容や民主党の提言などを改めて読みなおしてみました。
世間での風当たりは強いようですけど、これらの内容をよく読むと、どうして討論型世論調査で50%弱の人が原発ゼロシナリオに賛成したのかが少し理解できました。

国家戦略室エネルギー・環境会議によるサイトによると、有名な”原発ゼロシナリオ”(ゼロシナリオ)は次のようなものです。

2030年までに現在25%程度の原発依存度を0%にする、同時に現在10%程度の再生可能エネルギーの割合を35%まで引き上げる。火力発電の割合は概ね現状維持で65%程度のまま。また総発電電力量を現在の90%まで節電によって減らす。

それ以外のシナリオは原発の割合を15%か25%、再生可能エネルギーを25-30%ずつ、火力を50-55%にする、というものです(15シナリオと20-25シナリオ)。

こちらのページではそれぞれのシナリオにおける電力料金や経済成長への影響を予測した結果も示されています。これがどのシナリオを選択するかの基準になっていると思います。

特に興味深いと思った点は、どのシナリオでも電力料金は上がる、という点です。ニュースで有名になったように、ゼロシナリオでの料金は最大で現在の約2倍ですが、それ以外のシナリオでも1.2倍から1.8倍に上がると予測されています。 これは火力発電には将来的には地球温暖化対策により多くのコストがかかり、原子力発電には、従来推定されていたより大きな社会的コストが存在するところから来ているようです。 このことは、どのシナリオでも再生可能エネルギーの割合を2倍以上にすることになっている理由でもあるようです。

GDPに対するそれぞれのシナリオを影響予測も似たようなものですが、ゼロシナリオが少しだけ影響が大きいようです。 それ以外に考慮するべき、温室効果ガスの削減、燃料の費用、どれも見た目には大きな違いが無いようにみえます。

少なくとも、僕はこの内容を見る限りでは、ゼロシナリオでもいいと思いますし、討論型世論調査に参加した人もそう感じたのではないかと思います。必ずしも突拍子もない方向性ではないと思います。

それにどのシナリオを選ぶにしても、より持続可能な方向に文明を変化させていかなければならないのは必然ですし。

ただし、これらの予測モデルでは、再生可能エネルギーのコストは将来的に大きく下がる、と仮定されていますし、それらの社会的コストが無いと仮定されています。 実際に再生可能エネルギーのコストが下がらなければシナリオ自体が"絵に描いた餅"になるでしょう。化石燃料発電への依存度の高さも気になります。

全体的にエネルギー・環境会議のサイトを見て好感を持ったのは、できる範囲で、わかりやすく伝えることや議論をオープンにしようとしているのがわかることです。(多くの資料がウェブ上で見ることができるようになっていますし、討論型世論調査の資料(pdf)は分かりやすいと思います) オープンであるから、批判的な意見を述べることもできるわけですから。

 結局政府があいまいな雰囲気の決定にしてしまったのは、国民的議論をするために費やされたであろう努力を想像すると、少し残念な気がします。

2012年7月22日日曜日

[本]文明の生態史観 ‐ 歴史への生態学的アプローチ

文明の生態史観 (中公文庫) 文明の生態史観 (中公文庫)
梅棹忠夫

この本は、以前から名前は聞いたことがあるが読んだことがない本の1つでした。せっかく京都に住んでいるのだから、偉大な先人の書いた文章を読んでみることにしました。

まず最初に謝っておかなければいけません。申し訳ありません。僕はこの本のことを典型的な「日本人論」の一種と考えていました。生態学の言葉を使って日本人の特殊性を説明しようとする与太話...そのように考えていました。しかし読んでみるとその内容は、生態学の方法を使って人間社会の変化の法則を理解しようと試みる挑戦的な文章でした。

内容の構成は、11ある章の内最初の2章が、"生態史観"の着想のもとになった梅棹氏の中東・インドでのフィールドワークについて。その後に続く4つの章が"生態史観"についての有名な論考と公演記録です。その後の4つが生態史観に関係した当時の世界情勢の批評とフィールドのこと。最後の1章は内容が飛躍して比較宗教学についての論考です。

やはり興味深い内容が書かれていたのは中間の4つの章です。ここで書かれている内容をものすごく大雑把に要約すると次のようになると思います。ユーラシア大陸は近代文明の発達した"第一地域"と現在はそうでない"第二地域"にわけられて、これらの地域内は共通した文明の発展のパターンがみられる。これらの地域の発展のパターンはそれぞれの地域の地理的位置と気候などの環境要因によって決定されている...

多くのウェブサイトがこの本の内容を紹介していますので、より細かい内容はそれらを参考にしていただければいいと思います。

僕は梅棹氏が複数の文明を比較するとき、その"機能論"の側面に注目したことが、生態学的だと感じました。本文中にあるように、生態学者にとっては"照葉樹林"はどんな樹種で構成されていても"照葉樹林"であるように、日本でも西欧でも構成要素は違えど近代文明は近代文明である、とするのは文明の発展の法則を捉えるのに重要なステップだと思います。

そこから進んで、気候や地理的な条件が異なれば、森林の構成や遷移の様相が変わるように、文明の遷移の様相も環境の要因によって説明できるだろう、というのが"生態史観"の骨子だと思います。

人間社会の変化を生物の進化や生態のアナロジーで説明しようとするという試みは近年でも多くみられます。たくさんの人が"日本の市場が「ガラパゴス化」している..."とか、"「ニッチ」な市場をターゲットにした商品が..."、とか進化や生態の言葉を口にします。

より科学的なアプローチでは、 有名なのはジャレド・ダイアモンドの"銃、病原菌、鉄"やリチャード・ドーキンスの"ミーム"などがあります。ドーキンスもダイアモンドも彼らのアイデアは単なるアナロジーではないと考えていると僕は思います。優れた研究者が共通してこのようなアイデアに到達するのは、比喩ではなく本当に人間の社会が何らかの形で(生物の種のような)進化する単位であるからではないかと思います。

梅棹氏は本文中で、

進化は"たとえ"だが、サクセッションは"たとえ"ではない。生態学でいうところの遷移が、動物・植物の自然共同体の歴史をある程度法則的につかむことに成功したように、人間共同体の歴史もまた、サクセッション理論をモデルに とることによって、ある程度は法則的につかめるようにならないだろうか。

"人間共同体の進化"なのか"遷移"なのかは議論の余地があると思いますが、とにかく梅棹氏は文明の遷移には実体があって、生態学の手法によってその法則を科学的につかむことができると考えていたのだと思います。

このような科学的アプローチで文明の発展の法則を解き明かそうとする試みはとてもエキサイティングです。

ただ、残念なことは梅棹氏の歴史研究の生態学的手法はあまりその後科学的な発展をみなかったように見えることです。当時の生態学の理論ではある程度以上定量的な研究が不可能だったことが原因のひとつかもしれません。"生態史観"の4章のなかでの地域間の比較は、歴史上の共通点の記述のみで、それ以上の実証的な研究はありません。

このほかにも 、当時の歴史学者が生態学の素養を持たなかったことがあるかもしれません。また"生態史観"自体がある種の日本人論として捉えられてしまったことも原因かもしれません。しかし梅棹氏はそのことを、"日本の知識人のナルシシズム"、としてかなり厳しく本文中で批判しています。

僕はこの本を読んで、人間社会の変遷を司る法則を解き明かしたいという真摯な科学者の姿を感じました。それと同時にそれがうまく伝わらないフラストレーションも感じるような気がします。最後に長いですがそういうことを強く感じた部分を引用したいと思います。
世界は多様だと思う。しかし、無秩序ではないだろう。日々のできごとは、しばしば意外であり、混乱であるようにみえるが、よくみると、人類の文明は、いくつかの法則的な変化を、現にあらわしつつあるのではないかとおもわれる。  
世界の統一へのうごきはあるけれど、世界はまだ現実には統一されていない。われわれ自身、その分割された一片の土地に所属している。私たちはその土地からのがれることはできないけれど、その土地をのりこえて、全地球的な課題についてかんがえることはできるはずだ。われわれ自身の問題も、そのような全地球的な歴史のながれの中においてながめてみて、はじめてそのひずみのない姿をみることができるだろう。

2012年4月5日木曜日

再更新

最後の更新から2年近くが経っていることに驚きます。
いくつかあったゴタゴタがとりあえず全て済んで、ブログを書く余裕ができたので、ひっそりと更新していきたいと思います。

とりあえずブログの外見を一新しました。
Bloggerのインターフェイスがすっかり変わっていることも驚きです。